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微分音とテトラコルド ― ヤニス・クセナキス『音楽と建築』 [音楽]

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Iannis Xenakis, Olivier Messiaen (1977)

ヤニス・クセナキス (Iannis Xenakis, 1922?-2001) はルーマニア生まれのギリシャ人 (でも国籍はフランス) の作曲家であり建築家であるが、その確率論による音楽というのがどういうものなのかはよくわからないし、この本を読んでも全くわからない。
『音楽と建築』は以前に出された翻訳の改訂再版とのことであるが、その書評はクセナキスの略歴や作品の羅列に終始し、内容そのものについて語っている評はざっと見た範囲では見当たらなかった。私も全くわからないのだが、何となく面白い個所もあるので、前半部を闇雲に読んでみたが (正確にいうのなら 「読んでみようとしたが」)、結果として 「全然わかりませんでした」 と書くしかない。でもシロートなんだから 「全然わかりませんでした」 と素直に書いても許されるだろう、と最初に結論を書いておく。

〔確率論と作曲〕(1956) というのが最初のセクションである。
クセナキスはセリーが嫌いで、旋律線はポリフォニーの技法だとする。そしてそれが心理的境界線をつくって12音音楽の拡張を妨げているのだという。しかしクセナキスの用いる確率論においては、線でなく魂としてとらえることで作曲する、というのである (p.009)。これはその後のページに掲載されている〈ピソプラクタ〉(Pithoprakta, 1955-1956) を想定したうえでの言葉である。
彼は音の構成要素として 「持続時間」 「高さ (ピッチ)」 「速度」 をあげるが、これらの定義を数式により記述されている部分は全部飛ばし読みすることにして、確率論によって制御可能になったのは、音粒子や連続音の巨大集合の連続的変化であるという個所に注目する。

 平均値と偏差が集合の特徴を決定し、異なる方向に展開できる。そのな
 かでよく知られているのは、秩序から無秩序へ、またはその逆だ。ここ
 にエントロピーの概念が導入されるが、物理学と芸術を混合しないよう
 な慎重さが求められる。エントロピーの哲学的・目的論的解釈は、物理
 学の特定のマクロやミクロ領域では有効かもしれないが、確率音楽全体
 を動かす原理とみなすのは非常識だろう。(P.018)

クセナキスがこれを書いたのは1956年だが、その時点で、安易に 「エントロピー」 というような言葉を使うことをすでに戒めている。
そして〔三つのたとえ〕(1958) では、

 音楽こそどんな芸術にも増して、抽象的頭脳と感性的実践とが、人間的
 限界内で折り合う場所なのだ。(p.021)

ともいう。
三つのたとえのひとつめ、[空間のたとえ] のなかでクセナキスがこの時点で魅力的だといっているのはグリッサンドだ。

 音楽では、いちばん目立つ直線は、音の高さの一定の連続変化であるグ
 リッサンドだ。グリッサンドによって音の面や立体を構成するのは、魅
 力的で未来のある探求だ。(p.022)

しかしクセナキスがどのようにグリッサンドを認識しているかというと、

 グリッサンドにはさまざまな形態があるが、最も単純な均等に連続変化
 する音をとる。滑奏音は感覚的にも物理的にも速度という物理的概念と
 おなじとみなせる。それならば1次元ベクトル表示ができる。ベクトル
 のスカラーは両端の音程差と持続時間を2辺とする直角三角形の斜辺に
 なる。(p.011)

ということなのだ。これくらいの単純なことなら中学生数学だからわかるが、マクスウェル=ボルツマン分布とかになってくると、もうわからない。

[数のたとえ] においてクセナキスは、

 音列音楽では音は希薄にならざるを得ないし、小規模の合奏が偏重され
 る。(p.022)

これは、その前段の 「点描的な独自な形態」 というような形容と考え合わせれば、例えばヴェーベルンのような音楽に対する皮肉なのだと想像できる。そしてさらに攻撃は続く。

 じっさいには、音列的作品を聞いて書き取ることは、まずできない。非
 可逆性には心理的・生理的限界がある。形態 (ゲシュタルト) 理論やそ
 の公準によって、数学の曲芸的計算のつじつま合わせは無用のものとな
 った。しかも、何世紀も前から美術・音楽などの芸術分野では、数にと
 りつかれて、幾何学的・数的組み合わせの豊富さから作品価値を説明し
 ようとした試みは、無効だったことがわかっている。補助線・神聖三角
 形・黄金分割・異様に肥大したポリフォニーなどがその例だ。(p.022)

補助線・神聖三角形・黄金分割ときて、その後に 「肥大したポリフォニー」 と並列させたところで笑ってしまう。これは自作〈ピソプラクタ〉の正当性への導入だからだ。
三つのたとえの3つめは [気体のたとえ] であって、気体のキーワードはピチカートである。点が多くなることによって量的変化をもたらすというのは、本来質量を持たないはずの点が集合すれば質量を持つものに変化するという意味なのではないだろうか。

 ここでは思考は古典的ポリフォニーの枠組と細部へのこだわりから解法
 される。扱うのは形態と肌理 (テクスチャー) だ。(p.023)

テクスチャーという言葉が突然出てくるのが興味をひく。それはその次の、今まで出現してこなかった、理詰めと相反する結論めいた部分である。

 だが、作品の価値を保証するのは、最終的には直感と主観的選択しかな
 い。科学的基準による指標は存在しない。永遠の問題には解決はなかっ
 たし、これからもないだろう。(p.024)

この突然の叙情性のようなもの (揶揄して言っているのではない) が実はクセナキスの心情であり、数値的なものだけで処理できない部分への直感や主観こそが芸術の最も重要な一面なのだということである。
でありながら、クセナキスはそこで終わらない。
〔メタミュージックに向かって〕(1967) で彼は、情報論やサイバネティクスの信奉者をテクノクラート派と称し、対する感性信奉者とでも呼ぶべき者を直観主義者と呼ぶ。
テクノクラート派は通信技術ならともかくバッハの単純なメロディさえ説明できないし、対する直観主義者を、たとえば音楽を図形楽譜を見たときの視覚デザインの美しさで判断する図形派なのだと決めつける。図形記号を呪物化しているし、偶然性の音楽とはつまり即興に過ぎないというのだ。また、音楽に芝居をつけたり、ハプニングなどというイヴェントに逃避してみたりするとし、それは音楽への信頼が薄いし、音楽自体の否定であるとする (p.025)。このあたりのハプニングなどという言葉には、書かれた1967年という時代の風景が反映されている音楽観のように思える。

だがここで、クセナキスは [古代構造] として、古い音楽の解析と解説に入って行く。

 グレゴリオ聖歌は元来古代音楽構造に基づいている。9世紀以来西ヨー
 ロッパ音楽は急速に発展し、単旋聖歌を単純化・画一化して、現場から
 理論が失われた。(p.029)

あるいは、

 古代音楽は、すくなくとも紀元後数世紀まではオクターヴの音階や 「旋
 法」 などでは全然なく、「テトラコルド tetracord」 と 「システム」 に基
 づいていたと断言できる。(p.029)

というのだが、さらに

 中世以後の音楽の調性構造に視点が曇らされて、根本的な事実を見逃し
 ている。(p.030)

ともいう。テトラコルドという言葉から私は、小泉文夫を思い出してしまうのだが、クセナキスが語るのはもっとずっと昔のアリストクセノスの理論なのである。

アリストクセノスの理論 (→2017年12月27日ブログ) につづく。


ヤニス・クセナキス/音楽と建築 (河出書房新社)
音楽と建築




Aki Takahashi/Xenakis: Works for Piano (mode records)
Xenakis: Works for Piano




http://tower.jp/item/105126/

Yuji Takahashi/Xenakis & Messaen (日本コロムビア)
クセナキス&メシアン




Arturo Tamayo, Luxembourg Philharmonic Orchestra/
Xenakis: Pithoprakta
https://www.youtube.com/watch?v=nvH2KYYJg-o

Mari Kawamura/Xenakis: Evryali
https://www.youtube.com/watch?v=fn5F9m4Qf3w
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