SSブログ

金原瑞人『翻訳エクササイズ』 [本]

TetsuyaWatari_kanehara_211107.jpg

固有名詞をどう読むか、について金原瑞人が大変示唆に富んだ解説をしていた。研究社から出された『翻訳エクササイズ』という翻訳入門書であるが、翻訳に関する誤訳とか失敗談のエッセイといった内容で気軽に楽しめる。その中からちょっとだけ抽出。

まず固有名詞をどのようにカタカナ表記するかという問題なのだが、Franklin Rooseveltは 「フランクリン・ルーズベルト」 では失格、とのこと。現在、高校の教科書や歴史関係の本ではほとんどが 「フランクリン・ローズベルト」 になっているのにもかかわらず、大手新聞の表記は 「ルーズベルト」 のまま。そろそろ正しい表記に、と書かれていて、ええっ、そうなの? と驚いてしまった。でもwikiでは 「ルーズベルト」 になっている。 「ローズベルト」 「ローズヴェルト」 とも表記するという注があるが。
「oo」 というつながりはウーと発音するという刷り込みがあるのだが、でも人名は必ずしもそうならないということなのだろうか。シンセサイザー・メーカーのmoogが、昔はムーグ、最近はモーグというのに似ている。ネットをサーチしてみると、色々な意見があるらしい。

ほとんどの固有名詞は現地の発音に従うというセオリーで、英語圏では 「チャールズ・ボイヤー」 と発音されているフランスの俳優は日本では 「シャルル・ボワイエ」 と表記されている。ところがイタリアの 「ベニス」 もイタリア語発音に従えば 「ヴェネチア」 なのに、シェイクスピアの戯曲はまだ 「ベニスの商人」 のままなのはどうなの? という不統一なことへの指摘。最近の翻訳ではトーマス・マンの 「ベニスに死す」 を 「ヴェネチアに死す」 というタイトルにしているのがあるとのこと。
ただ、 「ベニスの商人」 や 「ベニスに死す」 は日本ではひとつのかたまりの言葉として認識され、あまりに使い慣れているから転換するのはむずかしいのかもしれないと思ってしまう。さらに細かいことを言えば、金原は 「ヴェネチア」 と表記しているが (p.078)、光文社古典新訳文庫のタイトルは 「ヴェネツィアに死す」 とのことだし (p.080)。 「ヴェネチア」 「ヴェネツィア」 「ヴェネッツィア」 などと考えているとさらに悩ましい。「コロンブス」 や 「アンデルセン」 は今さら現地発音には直せないよね (p.080) とも書かれているが 「ベニス」 もそれに近いんじゃないかと思う。

発音の間違いとは外れるが面白い間違いに 「聖林」 があるという。外国の地名や人名を漢字で表記していた頃の時代の産物で 「聖林」 → 「ハリウッド」 なのだが、これはHollywoodをHolywoodと読み間違えたのではないか、という。holy→聖なる、なのだがholly→柊なので 「聖林」 でなく 「柊林」 とするべきだったのだとのこと。これにもびっくり。だっていまだに 「聖林」 って表記、見かけますよね。

このように漢字で地名や人名表記する方法論は中国にもあって、しかも日本と中国で同一だったり少し違ったりするのだそうだが、倫敦とか希臘とか、聖林と同様に今でも時々見かけるのは、わざとそこから醸し出される古風な雰囲気を利用したいからだろう。でも一番の傑作は 「剣橋」 で、金原も 「いったい誰が考えたんでしょう」 と書いている。水野晴郎の 「007 危機一発」 というタイトル考案と同じように、アイデアマンは昔から何人もいたというふうにも考えられる。
かつてのアメリカ大統領レーガンは最初 「リーガン」 で、訂正されて 「レーガン」 になったとのことだが、ショーン・コネリーがデビューしたての頃はシーン・コナリーと表記されていたとも聞く。昔、玩具のミニチュアカーの広告ページで 「プゲオット」 という車名を見たときがあった。何だこれ? 見知らぬ小さな自動車会社かと思いますよね。プジョー (Peugeot) でしたけど、
もっともフランス語の発音が特殊なのは確かで、私のフランス語の教師は生徒を呼ぶとき、「小田切」 は 「オダジリ」 で、 「外間」 は 「オカマ」 だった。giの発音は 「ジ」 になるのでオダギリでなくオダジリなのだが、hは発音しないのでホカマでなくオカマ……でも最初に聞いたとき、ドッキリ! 他にもミッキーマウスはフランス語ではミケなので 「ネコかよ?」 というツッコミもありです。
Stephenはスティーヴンなのかステファンなのか本人に聞いたら、本当はスティーヴンなんだけど、相手がフランス人のディレクターだったのでステファンだよと答えたりとか、そのときそのときの事情もあるようだ。

NHKの音楽番組ではMaurizio Polliniをマウリツィオ・ポルリーニ、Maria João Piresをマリア・ジョアン・ピレシュと呼んでいたが、今もあいかわらずそう言っているのだろうか。あえてそうした表記にしたのかもしれないが、Pires本人の発音ではピレシュよりピリスのほうが近いし、ポリーニがポルリーニだとピアノが下手そう。どうしてもあえて表記したいのなら、小さい 「ㇽ」 を使ってポㇽリーニとするか、あるいは 「ポッリーニ」 くらいのほうが適切だと思う。

名前のカタカナ表記の 「・」 (中黒) 問題というのも参考になった。
ファッションブランドのシャネルでは名前の表記に中黒を使わず半角アキにするのがきまりなのだという。例として 「ロバート・メイプルソープ」 でなく 「ロバート メイプルソープ」。中黒は大げさでうるさいから半角アキのほうが自然で、今後そうなって行くのではないかと金原も書いている。
複合姓に用いられる 「=」 も同様に思われる。「クロード・レヴィ=ストロース」 とかウザったいですよね。といって 「クロード レヴィ ストロース」 と全部半角アキだけにしてしまうと見慣れないからちょっと不安定な気もする。でもヴィリエ・ド・リラダン (Villiers de l’Isle-Adam) なんて昔はリール・アダンという読み方だったのだが、そんな発音はないです。とはいえリラダンのフルネームはwikiに拠れば 「ジャン=マリ=マティアス=フィリップ=オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン伯爵」 なので、これを全部半角アキだけで処理するのはかなりキツいような気もします。「ジャン マリ マティアス フィリップ オーギュスト ド ヴィリエ ド リラダン伯爵」 となるので。

他にも面白いエピソードがたくさん。翻訳者はホントに大変なんだということがわかります。
earringは英語ではイヤリングもピアスもearringなので、最近の作品ならピアスのほうが断然多いはずだから、どちらかわからないときは、まずピアスにするとか (p.017)。
He wore dark shades. は (誤) 彼は暗い影をまとっていた → (正) 彼は黒のサングラスをかけていた (p.015)。これはヤヴァい誤訳ですがメチャメチャ笑ってしまう。怖いですね。


金原瑞人/翻訳エクササイズ (研究社)
翻訳エクササイズ

nice!(67)  コメント(8) 
共通テーマ:音楽