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村上春樹『女のいない男たち』 [本]

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村上春樹『女のいない男たち』の文庫本がかなり売れているらしい。
同書には映画《ドライブ・マイ・カー》の原作が収録されているので、アカデミー賞効果もあるのだろう。そもそもこの『女のいない男たち』は短編集であり、映画は 「ドライブ・マイ・カー」 のストーリーだけでは成立しないので、他の短編からエピソードを加えた構造になっているとのことだ。「とのことだ」 と書いてしまうのは私がまだこの映画を観ていないからなので、この記事は『女のいない男たち』という短編集に関して感じたことを書いてみたのであって映画とは直接関係がない。村上春樹を久しぶりに読んだ気がする。村上春樹はやっぱり村上春樹だなと思って、ちょっと楽しかった。

『女のいない男たち』には6つの短編が収められているが、そのほとんどが不倫やそれに類した状況を題材としていて、しかも出てくる男が 「寝盗られ宗介」 を髣髴とさせたりするのだが、そんな中で2つ目の短編 「イエスタデイ」 だけが少し違う。そしてこれは青春を回想するような悲しい物語である。

「イエスタデイ」 は 「僕」 という一人称で語られる。僕の友人の木樽明義はビートルズの〈イエスタデイ〉を変な関西弁に訳しているのだが、彼は東京生まれの東京育ちであり、関西弁は人工的に習得した言語である。対して僕は芦屋生まれにもかかわらず東京弁を話す。つまり屈折した言語環境で自分を防御していることについて二人には共通性がある。
栗谷えりかは木樽のガールフレンドで、木樽とは小学校の頃からの長い付き合いなのだ。つまり二人は周囲も認めている許嫁のような関係なのであるが、ある日、木樽は僕に 「おれの彼女とつきあわないか」 という。木樽は僕に、おまえなら安心して預けられるみたいなことを言うのだがその意味がよくわからないから、結局それは進展しないままに終わってしまう。えりかは現役で大学に合格したのに木樽は二浪という負い目のようなものが木樽からは感じとれたのだ。

そして16年後、えりかと僕はあるパーティーで偶然再会する。僕は結婚しているが、えりかは独身のまま。そして木樽はどうしたのか訊ねると、大学進学はあきらめ鮨職人となって今はデンバーにいるのだという。おそらく木樽も独身なのだろうともいう。
ほんの少しのすれ違いがあって、結局それが人生を左右してしまったという話なのだが、でもそのようなちょっとした齟齬は、誰の人生にも転がっているような気がする。
木樽が関西弁で歌う〈イエスタデイ〉という屈折した心情の象徴としてビートルズが使われたのだろうが、私に聞こえてくる歌はどちらかというと 「Ah, look at all the lonely people」 というフレーズである。

尚、木樽 (きたる) という苗字と栗谷 (くりたに) という苗字の最初の3文字 (くりた) はローマ字にするとアナグラムになっている (KITARU → KURITA)。

5つ目の長めの短編 「木野」 [きの] はこの短編集の中で一番緻密で暗く、オカルトな様相も備えている。
木野はスポーツ用品販売会社の営業で地方への出張が多かった。その留守の間に会社の同僚と木野の妻が関係を持ち、それが発覚して木野は離婚することにする。
木野は会社も辞め、伯母が喫茶店を営んでいた路地奥の一軒家を貸してもらいバーを始める。
最初は目立たない店だったが、灰色の雌の野良猫が棲み着くようになり、その猫が呼んだのかやがて客がつくようになる。いつもひとりでやってきて酒を飲みながら読書をする客がいて、ある日、ガラの悪い2人連れ客が面倒を起こしそうになったとき、何らかの方法で撃退してくれた。彼は神田という名前だった。「かんだ」 ではなく 「かみた」 だという。

夏の終わりに木野の離婚は成立するが、やがて秋になると猫がいなくなり、かわりに蛇が店の周囲に姿を見せるようになる。そのことを伯母に電話で知らせると伯母は、蛇は人を導くが、それが良い方向なのか悪い方向なのかは実際になってみないとわからないという。さらに、

 「そう、蛇というものはもともと両義的な生き物なのよ。そして中でもい
 ちばん大きくて賢い蛇は、自分が殺されることのないよう、心臓を別の
 ところに隠しておくの (後略)」 (文春文庫 p.258)

というのである。
ある日、神田がやってきてこの店を閉めるようにと告げる。しばらくこの店を閉めて遠くに行き、なるべく繁雑に移動し、毎週月曜日と木曜日に必ず絵葉書を出す。宛先は伯母さんでよいが差出人の名前もメッセージも書いてはいけない。木野がもどって来てもよい状況になったら知らせる、というのだ。
木野は四国へ、そして九州へと旅を続けるが、やがて宿泊しているホテルから動けなくなり、伯母に文面を書いた絵葉書を出してしまう。するとホテルのドアをずっとノックする音が聞こえるようになる。
「ドアを叩いてるのが誰なのか、木野にはわかる」 のだが木野はドアを開けない。

 おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。
 (文春文庫 p.271)

詩的で流れるような記述によってこの短編は終わってゆく。具体的な説明はなされない。まるで推理小説における 「不誠実な語り手」 のように。
その流れのまま、最後の短編 「女のいない男たち」 が始まる。主人公の僕と、僕の昔の恋人・エム、そして彼女の現在の夫。冒頭、彼女の夫から電話がかかってくる。

 妻は先週の水曜日に自殺をしました。なにはともあれお知らせしておか
 なくてはと思って、と彼は言った。(文春文庫 p.279)

なぜ彼女の夫が僕にそんな電話をかけてきたのかがわからない。そこにどんな必然性があるのだろうか、と僕は考える。そして彼女が 「エレベーター音楽」 が好きだったことを僕は思い出す。エレベーター音楽とは

 つまりパーシー・フェイスだとか、マントヴァーニだとか、レイモン・
 ルフェーブルだとか、フランク・チャックスフィールドだとか、フラン
 シス・レイだとか、101ストリングズだとか、ポール・モーリアだとか、
 ビリー・ヴォーンだとかその手の音楽だ。(文春文庫 p.296)

無害な、ここちよい音楽が好きだったといった彼女のことを僕は思い出す。「そのようにして、彼女はこれまで僕がつきあった女性たちの中で、自死の道を選んだ三人目となった」 (p.282) と僕は語る。そしてその独白のままにこの短編集は終わって行く。
尚、木野という苗字はkinographyの略語kinoなのかもしれないが、あまり深読みはしないことにする。

この 「木野」 を経て 「女のいない男たち」 へと続く流麗さは、ビートルズでたとえるならば《アビイ・ロード》のB面のような印象を私は抱く。でも村上春樹の描く静謐さと内向性を考えると、きっとそれは勘違いなのだろうけれど。たぶん。


村上春樹/女のいない男たち (文藝春秋)
女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)




Paul McCartney Live at The Music for Montserrat
Royal Albert Hall (Monday 15th September 1997)
 01: Yesterday (00:45)
 02: Golden Slumbers / Carry That Weight / The End (03:48)
 03: Hey Jude (12:04)
 04: Kansas City / Hey Hey Hey Hey (18:32)
https://www.youtube.com/watch?v=TBmw6UMA7aw
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