藤井風テレビ [音楽]
藤井風テレビ (お笑いナタリーより)
テレビ朝日の《藤井風テレビwithシソンヌ・ヒコロヒー》を観た。藤井風をメインに据えたお笑い番組である。
場面はレストラン。藤井風はピアニスト役で、客の男が相手の女にプロポーズしようとしている大事なときなのに、そのシーンに合わない曲を弾いて監督のメガホンで何度も殴られるというドリフなコントに大笑い。一番最後には、ドリフの場面転換のメロディをピアノで弾いているのに引っぱられて退場というマニアック (でもないか) なオチ。でも藤井風、あんなに殴られていいんか? と心配してしまうくらいでした。
唯一の歌唱シーン。〈まつり〉を歌ったのだが、この曲がどういう曲なのかいままで知らないでいたことに愕然。微妙なニュアンスの積み重ねの中に、あぁそうなんだ、と納得できた部分がいくつもあって、というか、いままで聴いていたのは上っ面だけでそこまでわかっていなかったのだと思う。
「花祭り 夏祭り」 「秋祭り 冬休み」 という対比が微妙なニュアンスと感じてしまうひとつの例である。
「愛しか感じたくもない」 「もう何の分け隔てもない」 「比べるものは一切ない」 「勝ちや負けとか一切ない」 と 「ない」 の連鎖から連想するのはギルバート・オサリヴァンの〈Nothing Rhymed〉だが、藤井の場合は単なるNoの連鎖だけでは終わらなくて、「僕が泣いた」 「君が笑った」 と 「夏の暑さ」 「冬の厳しさ」 という対比を経てさらにその奥に入って行く。
花祭り 夏祭り
生まれゆくもの死にゆくもの
全てが同時の出来事
秋祭り 冬休み
みな抱きしめたら踊りなさいな さいな
「踊りなさいな」 の後、「さいな」 と繰り返すのは、さらに 「さいなら」 へと向かう暗示でもある。
まつりというものが本来持っている原初的な意義がここで明らかになる。まつりとは非日常の時と空間であって、だがそれは生活のサイクルの中でのほんのひとときに過ぎない。そのひとときは享楽でありアナーキーであって、引いた場所から見るとニヒリスティックな様相も備えている。だからとりあえず嫌なことは忘れて、まつりだまつりだ北島三郎だ、というのがまつりの一面でもある。
ある意味、とても日本的なセンシティヴィティであって、そのなかに屈折した藤井風のあきらめと受容がある。やさしく寄り添いながら同時に突き放しているような、これもまた微妙なニュアンスである。
苦しむことは何もない
肩落とすこた一切ない
ない ない
歌詞だけを抜き出すと無骨で直裁過ぎるように思えるが、それがメロディに乗ると言葉であらわせない感情が漂う。長く引き延ばされた 「ない」。悩み苦しむ心でいる者への肯定感。スタジオで歌う藤井風を観ながら思わず涙が出そうになった。歌とは本来、そのような素朴な感想で語るべきものなのである。
バックで弾いていたあのギター、モダーンですよね?
藤井風/LOVE ALL SERVE ALL (Universal Music)
藤井風/まつり (Official Video)
https://www.youtube.com/watch?v=NwOvu-j_WjY
* xxxHOLiCのテーマ曲はセカオワ、音楽は渋谷慶一郎って……おぉ。