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大和田俊之『アメリカ音楽の新しい地図』 [本]

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Taylor Swift

現在のアメリカ音楽はどのようなものであるか、そしてどのように聴かれていてどのように聴くべきであるかということについて、この本は幾つもの示唆に満ちている。
特にそのアメリカ市場で爆発的な発展を遂げたK-popのBTSについては、まず1992年のロス暴動の解説から書き起こされている (9 BTSと 「エイジアン・インヴェイジョン」)。

ロス暴動はアフリカ系と韓国系コミュニティーの確執という枠組みで報道されているが、韓国系の人たちがなぜアフリカ系に対してネガティヴなイメージを持っていたのかというとそれは韓国駐留軍の人種隔離制度を見ていて、アフリカ系への差別意識を持ってしまったのだというのだ。しかしこの解説も 「ある研究によれば」 とされていて、著者自身の意見として書かれているわけではない (あるいはそのように装われている)。
さらに、

 だが、ナンシー・アベルマンとジョン・リーが論じるように、ロス暴動
 を 「アフリカ系/韓国系の衝突」 というフレームワークに落とし込むこと
 こそ、マイノリティーの多様性を隠蔽する行為に他ならない。(p.180)

ともある。こうした記述はアメリカが多民族国家であることをあらためて認識させてくれる。

さて、そうした異民族間の反目がありながらも同時に影響を受けることも確かで 「1990年代初頭にアメリカから韓国に戻る 「逆移民」」 があって、そのような移民二世や三世が本場のブラックミュージックを韓国に持ち込んだのだという。(p.182)

そしてアジア系の音楽市場におけるイメージは 「ダンスが上手い」 こと、さらに言うのならグループによるダンス・パフォーマンスが優れているという評判であるのだそうだ。特にブレイクダンスというジャンルは、そもそも1970年代のブルース・リーによるカンフーの動きにインスパイアされたものだとの解説もされている。(p.185)

 韓国のアイドルグループがアメリカの音楽市場を開拓したのは、アジア
 系がダンス、とりわけ集団のダンスに秀でているというイメージがまさ
 に定着しつつある時期である。(p.185)

だからといってアジア系のイメージがすべてポジティヴなわけではもちろんない。ここで引用されているロバート・G・リーの『オリエンタルズ』は、アメリカ人のアジア系に対する視点を的確にあらわしている。

 アジア系アメリカ人はヴェトナム戦争でアメリカを敗北させた敵と同一
 視され、さらにアメリカ帝国主義崩壊のエージェントとして見られてい
 る。アメリカのイノセンスの喪失として語られるヴェトナム戦争の話は、
 国家崩壊のマスターナラティヴとして語られており、そこではポスト・
 フォーディズム時代の危機が侵略と裏切りの産物として定義されている。
 (p.190)

これをさらに補強する表現として、アジア系アメリカ人のステレオタイプは 「モデル・マイノリティー」 「黄禍 (yellow peril)」 「永遠の外国人 (perpetual foreigner)」 であるという。
もっともアメリカの保守派がアジア系の特質としてあげるのが勤勉、従順、家族の尊重であり、これは捏造され都合よく想像されたものだという注も付くが、旧来のアメリカ的価値観の回復には不可欠であるとも書かれている。
この保守的アメリカ人から見たアジア系の長所と短所が入り混じって矛盾した状態の心情がまさにアメリカの本音であり、アジア系に対する複雑な視点ともいえよう。

強くなければならないという規範が残るアメリカであったが、メンタルヘルスへの関心や人間の弱さや傷つきやすさと向き合う風潮が出てくるにつれて、男性主導の社会のあり方に根本的な批判の目が向けられるようになった。そのような男性主導社会は有害な男らしさ (toxic masculinity) として定義され、アメリカにおける男性的な価値観の暴落が生じた。そうした時代にまさにフィットするBTSのような、より中性的 (バイセクあるいはアセクシュアル) に見えるアジア系のアイドルの受容があったのだということなのだ。(p.192〜)。
前述のリーから 「オリエンタルは (男性も女性も) 「第三の性」として構築されたのだった」 との引用がある。(p.194)

こうしたアメリカにおける音楽の変遷と嗜好の流動を戦略的にうまくとらえ、その時流に乗ることができたのがBTSであるというふうに見ることもできるのだろう。
このようなアメリカのポップ・ミュージックに関する戦略を示しているのが冒頭のテイラー・スウィフトに関する部分である (1 テイラー・スウィフトとカントリーポップの政治学)。

テイラー・スウィフトはいわゆるカントリーミュージックをルーツとしていた歌手であるが、そのカントリーミュージックという呼称について興味深い記述がある。もともとヒルビリー、フォーク、ウェスタンミュージックなどと分類されていた音楽がカントリーミュージックとして統一されたのは第2次世界大戦後なのだという。その中心地はテネシー州ナッシュヴィルであり、このカントリーミュージックが1950年代にロックンロールの影響を受け、その影響のひとつとしてサブジャンルであるナッシュヴィル・サウンド (洗練されたカントリーミュージック) が生まれ、さらにそれがカントリーポップとして人口に膾炙され一般的に認知されるようになったのであり、それがテイラー・スウィフトの立ち位置であったのだという。(p.014〜)

正統的なカントリーミュージックとは男性主導の音楽であり、女性は周縁的イメージしか与えられない。そして当然、地方の白人コミュニティーが支持基盤であるから共和党との相性がよい。それならば共和党コミュニティーに取り入るのがセールスを伸ばすための方法論であるし、共和党支持を訴えるのがよいのではないかと単純に考えたのでは割り切れない事情があるのだという (p.014&016)。まさにそこが政治学たる所以なのである。

大和田によればテイラー・スウィフトの〈私たちは絶対に絶対にヨリを戻したりしない (We Are Never Ever Getting Back Together)〉には都会用ミックス (インターナショナルミックス) とカントリーミックスがあり、都会用ミックスでシンセが用いられているのに対し、カントリーミックスではマンドリンやフィドルなどのアコースティク楽器に差し替えられているというのだ。ヴォーカルは同じ音源を使っているので同じように聞こえるのだが、同じ曲を聴いているように見えて、実はその地域により異なった曲が流れているのだというのだ。非常に卑近な例でいえば、カップラーメンに関東版と関西版があるのに似ている。
これは都会でも地方でもファンを取り込もうとする戦略であり、より政治的にいえば民主党も共和党も取り込みたいというテイラー・スタッフの意識のあらわれなのである。だからテイラー・スウィフトは自分がどちらの政党を支持するかという発言を慎重に避けてきたというのだ。

だがそれよりも面白いのは、この曲は別れた元カレ・ジェイクに対する恨み節の歌なのであるが、その歌詞の中に次のような部分がある。

 あなたは私の音楽よりよっぽどカッコいいインディーミュージックを聴
 きながら自分の世界に閉じこもっていたわよね (p.021)

元の英詞は次のようである。

 And you would hide away and find your peace of mind
 With some indie record that’s much cooler than mine

この歌詞をストレートに読めば、自分の音楽はインディーミュージックより古くてカッコ悪いと卑下しているような口ぶりなのだが、ここに対する大和田の解釈は、

 つまり、テイラーはここでポップス/インディーミュージックという対
 立項を提示し、自身が体現するポップスに対してジェイクが好んで聴く
 インディーミュージックの 「趣味の良さ」 を自虐的に持ち上げながら、
 この楽曲の圧倒的な 「ポップス」 の魅力で大ヒットを達成し、ジェイク・
 ジレンホール的なサブカル趣味を文字通り捩じ伏せている。だがそれ以
 上に重要なのは、ここでテイラーが 「インディーミュージック」 の対立
 項として 「ポップス」 を設定し、自ら後者側に身を置くことで、カント
 リーミュージックというサブジャンルからメインストリームの音楽シー
 ンへと活躍の場を移そうとしていた彼女にとって、それは非常に効果的
 なイメージ操作といえるだろう。(p.021)

こうしたことは彼女が出自であるカントリーミュージックというイメージを上手に消去して、一般的なポップス歌手として振る舞おうとする思惑である。わざわざナッシュヴィルに行ってカントリーミュージックというフィールドから立ち上がりながら、ここに来てそれを 「田舎っぽい」 「ダサい」 と認識し、巧妙に廃棄したのに等しい。

もはやポップスの王道であるテイラー・スウィフトはともかくとして、コンテンポラリーなアメリカ音楽の情勢が詳しく解説されていてあらたな知識を得ることのできた本であった。ところがそうした新しい音楽としてリストアップされている曲や、昨年のベストとして選ばれている曲などを聴いても残念ながら全く感動できなかった。これは私の感性が古いのか、それとも嗜好が異なるのか、おそらくその両方だとも思うのだが、むしろそれこそが現代アメリカの乾いた感性を現していて、アメリカの現況を冷静に開示しているというふうに考えられなくもないのだ。

Newsweek日本版の02月02日の記事に大江千里の 「ニューヨークの音が聴こえる」 というコラムがある。タイトルは 「BTSとJ-POPの差はここにある——大江千里が 「J-POPが世界でヒットする時代は必ず訪れる」と語る訳」 となっていて、K-popは 「生き残りを懸けて戦うというか、自国を背負う感覚で音楽をやっている。デビュー時には既にダンスも歌もクオリティーが高く、顔のお直しも完了している」 のに対して、「一方の日本は、宝塚に代表されるようにファンと一緒に成長する過程を楽しむ独特のスタイルだ。少しぐらい 「へたうま」 のほうがファンには応援しがいがある」 と書き、「クオリティーの高いJ-POPは 「売り上げ、売り込み、国を背負い」 ではないが、いい曲は必ずヒットする」 と結んでいる。

たぶん、K-popやヒップホップ関連の過剰な 「やってやる感」 が私の感覚には合わないのだと思う。強く張り過ぎた弦は良い音で鳴るが切れやすい。過剰なテンションの音楽を私はもうそんなに欲していないのかもしれない。


大和田俊之/アメリカ音楽の新しい地図 (筑摩書房)
アメリカ音楽の新しい地図 (単行本)




Taylor Swift/We Are Never Ever Getting Back Together
https://www.youtube.com/watch?v=WA4iX5D9Z64

大江千里 ニューヨークの音が聴こえる 2022年02月02日
https://www.newsweekjapan.jp/ooe/2022/02/btsj-popj-pop.php
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ミシェル・ビュトール『レペルトワール II』 [本]

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大晦日の午後の駅の構内ではカートを引っぱっている人たちで混み合っていたのに、ハリー・ポッター展開催中のステーションギャラリーの前を通って外に出ると曇り空で、oazoの丸善は空いていた。しばらく書店に行かないでいると禁断症状が出てきて、欲しい本のあまりの多さに眩暈がしてしまう。でもそれを全部買うわけにはいかない。
めざす本がなくて、意外な本や買わなくてもよい本を買ってきてしまうので、だから永遠に欲しい本が買えないような気がする。

木村ユタカ著&監修の『Japanese City Pop Scrapbook』という本をずっと読んでいて、以前出した本の増補改訂版という内容なのだそうだが、なかなか中身が濃くて面白かったけれど少し疲れてしまった。シティ・ポップもキリがない。この本に触発されて書きたいこともあるけれど、まだ視点が定まらない。

それで偶然見つけた本はミシェル・ビュトールの『レペルトワール II』で、すでに1年前に『レペルトワール I』が刊行済み。知らなかった。主に評論集といってよいが、最初にいきなり 「長編小説と詩」 という章があって 「これだ」 と思ってしまうのは、今、マイブームが詩歌だからなのだ。でも吉増の新刊は買わない。だって……。

トミカの72がエリーゼなので思わず買ってしまう。そしたら『CG』2月号に131エミーラの小さな写真が載っていた。エリーゼと較べると大きいが、最後になってきれいな造形を出してきたなと見入ってしまう。

でも年末に手に入れた本でヒットなのは復刊された山尾悠子の歌集『角砂糖の日』で、暗い赤の表紙には、箔押しされた金の余りが少し散ってきらきらとしていて、白い貼函との対比が美しい。詩集もいいけど、詩集より歌集かなぁとも思う。

などと書いてしまっているうちに、もう2022年になってしまった。紅白はMISIAとの藤井風のデュエットでしたね。ということで2022年もよろしくお願い申し上げます。


木村ユタカ/Japanese City Pop Scrapbook
(シンコーミュージック)
ジャパニーズ・シティ・ポップ スクラップブック




谷山浩子/空の駅
https://www.youtube.com/watch?v=gi6Wzyv9ZUw
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山尾悠子×川野芽生往復書簡 [本]

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『ねむらない樹』vol.7を読む。
特集は葛原妙子なのだが、第2特集が川野芽生であり、山尾悠子と川野芽生の往復書簡が掲載されていて、とっちらかった内容でわかる人にはわかるけれどわからない人にはわからない内容で、言葉があふれていて尻切れトンボで、とても面白い。

川野芽生の歌集『Lilith』は買ったことだけ書いておいたのだが (→2021年07月05日ブログ)、これ、簡単に書ける内容じゃないぞと思ってそのままにしておいたのである。

まず、川野の最初の往信には『夜想』の山尾の言葉が引かれていてそれは 「むかしむかしの『ちょっと風変わりな』多くの女性たちはひとりで生きてひとりで死んでいったのだろうなと、尾崎翠のことなども少し思い出していた」 という部分であり、それに対して山尾は、「かつての風変わりな女性創作者たちの孤独」 と返している。それは尾崎翠であり倉橋由美子であり矢川澄子である、と。尾崎翠が幻想文学であるかどうかはここでは問わないのだ。おそらく幻想文学ではないのだけれど、その描き出す世界に 「風変わり」 と思われてしまうテイストが存在する (尾崎翠に関しては以前、ちらっとだけ書いたがほとんど書いていないに等しいのは、あまり知られたくないという独占欲だ→2013年11月06日ブログ)。

山尾はユリイカで特集された須永朝彦のことによせて 「天使と両性具有」 のこと、そして百人一首リレーという企画があり、葛原妙子の 「他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水」 を選ぼうとしていたら谷崎依子に選ばれてしまったというようなことを書く。
それに対して川野はアンドロギュノスというよりもアセクシュアルであることが理想だと応えているのだ。そして天使はアセクシュアルではないかという。川野が他のところでもアセクシュアルについて語っていたようなことを覚えていてちょっと納得。

山尾は新進作家の頃、若いSF作家たちのなかで紅一点といった立ち位置にいて、それはおいしかったのかもしれないといいながら、逆にいえばそれは女性だからという見方で軽く扱われていたのだったのに過ぎないと語る。それに対して川野は、そうしたいわゆる性的差別というのはまだ存在していると応えている。
近代短歌において、浪漫的な与謝野晶子などの作風があったのにもかかわらず、アララギが出てきたことで短歌はリアリズム全盛になってしまった。そうした状況に対して折口信夫は掩護射撃のつもりで、アララギは女歌を閉塞したものと表現したのだが、そのようにしてこういうのが女性の歌だ、と男性が定義するところもまた性差別であったのだと上野千鶴子が指摘しているという記述があって、この部分はとても鋭いし、変わっているようで意外に変わっていない文壇の今昔をもあらわしている。

川野芽生の愛読書がリストアップされていて、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、トールキン『指輪物語』は順当として、ダンセイニ『最後の夢の物語』、エリアーデ『ムントゥリャサ通りで』、ドノソ『夜のみだらな鳥』が選択されているのはさすがである。
川野の短歌が30首選ばれて掲載されているがその冒頭の

 凍星よわれは怒りを冠に鏤めてこの曠野をあゆむ

は山尾が若い頃、憤怒しつつ小説を書いていた一時期があって、という述懐を思わず連想して (もちろん関係ないのだけれど)、凍星と怒りという単語から受ける冷たさに引き込まれる。
そして、

 ヴァージニア・ウルフの住みし街に来てねむれり自分ひとりの部屋に

「自分ひとりの部屋」 とはウルフの《A Room of One’s Own》のことである。
往復書簡の最後に山尾が『Lilith』の帯文はヌルかったと書いているのにちょっと笑った。そうかも。
で、結局『Lilith』については何も書けてないです。


短歌ムック ねむらない樹 vol.7 (書肆侃侃房)
短歌ムック ねむらない樹 vol.7




川野芽生/Lilith (書肆侃侃房)
Lilith




彫琢された文語の木鐸 — 川野芽生さんの歌壇賞受賞に寄せて
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/about/booklet-gazette/bulletin/603/open/603-01-2.html
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金原瑞人『翻訳エクササイズ』 [本]

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固有名詞をどう読むか、について金原瑞人が大変示唆に富んだ解説をしていた。研究社から出された『翻訳エクササイズ』という翻訳入門書であるが、翻訳に関する誤訳とか失敗談のエッセイといった内容で気軽に楽しめる。その中からちょっとだけ抽出。

まず固有名詞をどのようにカタカナ表記するかという問題なのだが、Franklin Rooseveltは 「フランクリン・ルーズベルト」 では失格、とのこと。現在、高校の教科書や歴史関係の本ではほとんどが 「フランクリン・ローズベルト」 になっているのにもかかわらず、大手新聞の表記は 「ルーズベルト」 のまま。そろそろ正しい表記に、と書かれていて、ええっ、そうなの? と驚いてしまった。でもwikiでは 「ルーズベルト」 になっている。 「ローズベルト」 「ローズヴェルト」 とも表記するという注があるが。
「oo」 というつながりはウーと発音するという刷り込みがあるのだが、でも人名は必ずしもそうならないということなのだろうか。シンセサイザー・メーカーのmoogが、昔はムーグ、最近はモーグというのに似ている。ネットをサーチしてみると、色々な意見があるらしい。

ほとんどの固有名詞は現地の発音に従うというセオリーで、英語圏では 「チャールズ・ボイヤー」 と発音されているフランスの俳優は日本では 「シャルル・ボワイエ」 と表記されている。ところがイタリアの 「ベニス」 もイタリア語発音に従えば 「ヴェネチア」 なのに、シェイクスピアの戯曲はまだ 「ベニスの商人」 のままなのはどうなの? という不統一なことへの指摘。最近の翻訳ではトーマス・マンの 「ベニスに死す」 を 「ヴェネチアに死す」 というタイトルにしているのがあるとのこと。
ただ、 「ベニスの商人」 や 「ベニスに死す」 は日本ではひとつのかたまりの言葉として認識され、あまりに使い慣れているから転換するのはむずかしいのかもしれないと思ってしまう。さらに細かいことを言えば、金原は 「ヴェネチア」 と表記しているが (p.078)、光文社古典新訳文庫のタイトルは 「ヴェネツィアに死す」 とのことだし (p.080)。 「ヴェネチア」 「ヴェネツィア」 「ヴェネッツィア」 などと考えているとさらに悩ましい。「コロンブス」 や 「アンデルセン」 は今さら現地発音には直せないよね (p.080) とも書かれているが 「ベニス」 もそれに近いんじゃないかと思う。

発音の間違いとは外れるが面白い間違いに 「聖林」 があるという。外国の地名や人名を漢字で表記していた頃の時代の産物で 「聖林」 → 「ハリウッド」 なのだが、これはHollywoodをHolywoodと読み間違えたのではないか、という。holy→聖なる、なのだがholly→柊なので 「聖林」 でなく 「柊林」 とするべきだったのだとのこと。これにもびっくり。だっていまだに 「聖林」 って表記、見かけますよね。

このように漢字で地名や人名表記する方法論は中国にもあって、しかも日本と中国で同一だったり少し違ったりするのだそうだが、倫敦とか希臘とか、聖林と同様に今でも時々見かけるのは、わざとそこから醸し出される古風な雰囲気を利用したいからだろう。でも一番の傑作は 「剣橋」 で、金原も 「いったい誰が考えたんでしょう」 と書いている。水野晴郎の 「007 危機一発」 というタイトル考案と同じように、アイデアマンは昔から何人もいたというふうにも考えられる。
かつてのアメリカ大統領レーガンは最初 「リーガン」 で、訂正されて 「レーガン」 になったとのことだが、ショーン・コネリーがデビューしたての頃はシーン・コナリーと表記されていたとも聞く。昔、玩具のミニチュアカーの広告ページで 「プゲオット」 という車名を見たときがあった。何だこれ? 見知らぬ小さな自動車会社かと思いますよね。プジョー (Peugeot) でしたけど、
もっともフランス語の発音が特殊なのは確かで、私のフランス語の教師は生徒を呼ぶとき、「小田切」 は 「オダジリ」 で、 「外間」 は 「オカマ」 だった。giの発音は 「ジ」 になるのでオダギリでなくオダジリなのだが、hは発音しないのでホカマでなくオカマ……でも最初に聞いたとき、ドッキリ! 他にもミッキーマウスはフランス語ではミケなので 「ネコかよ?」 というツッコミもありです。
Stephenはスティーヴンなのかステファンなのか本人に聞いたら、本当はスティーヴンなんだけど、相手がフランス人のディレクターだったのでステファンだよと答えたりとか、そのときそのときの事情もあるようだ。

NHKの音楽番組ではMaurizio Polliniをマウリツィオ・ポルリーニ、Maria João Piresをマリア・ジョアン・ピレシュと呼んでいたが、今もあいかわらずそう言っているのだろうか。あえてそうした表記にしたのかもしれないが、Pires本人の発音ではピレシュよりピリスのほうが近いし、ポリーニがポルリーニだとピアノが下手そう。どうしてもあえて表記したいのなら、小さい 「ㇽ」 を使ってポㇽリーニとするか、あるいは 「ポッリーニ」 くらいのほうが適切だと思う。

名前のカタカナ表記の 「・」 (中黒) 問題というのも参考になった。
ファッションブランドのシャネルでは名前の表記に中黒を使わず半角アキにするのがきまりなのだという。例として 「ロバート・メイプルソープ」 でなく 「ロバート メイプルソープ」。中黒は大げさでうるさいから半角アキのほうが自然で、今後そうなって行くのではないかと金原も書いている。
複合姓に用いられる 「=」 も同様に思われる。「クロード・レヴィ=ストロース」 とかウザったいですよね。といって 「クロード レヴィ ストロース」 と全部半角アキだけにしてしまうと見慣れないからちょっと不安定な気もする。でもヴィリエ・ド・リラダン (Villiers de l’Isle-Adam) なんて昔はリール・アダンという読み方だったのだが、そんな発音はないです。とはいえリラダンのフルネームはwikiに拠れば 「ジャン=マリ=マティアス=フィリップ=オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン伯爵」 なので、これを全部半角アキだけで処理するのはかなりキツいような気もします。「ジャン マリ マティアス フィリップ オーギュスト ド ヴィリエ ド リラダン伯爵」 となるので。

他にも面白いエピソードがたくさん。翻訳者はホントに大変なんだということがわかります。
earringは英語ではイヤリングもピアスもearringなので、最近の作品ならピアスのほうが断然多いはずだから、どちらかわからないときは、まずピアスにするとか (p.017)。
He wore dark shades. は (誤) 彼は暗い影をまとっていた → (正) 彼は黒のサングラスをかけていた (p.015)。これはヤヴァい誤訳ですがメチャメチャ笑ってしまう。怖いですね。


金原瑞人/翻訳エクササイズ (研究社)
翻訳エクササイズ

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坂本龍一『ピアノへの旅』を読む [本]

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Márta and György Kurtág

コモンズ:スコラの第18巻は『ピアノへの旅』というタイトルで、ピアノが成立するまでの歴史とピアノを巡る話題が鼎談、対談によって展開される読みやすい本である。「ピアノへの旅」 と聞くとやや抽象的だが英語タイトルは 「A Journey Tracing the Roots of the Piano」 とあって明快だ。この第18巻からCD附属ではなくなってQRコードによるプレイリストになったのは小松亮太の本などと同様だが、価格を抑えるための合理的選択ではある。プレイリストの音源が永遠に存在するかどうかは不明だが。

前半の鍵盤楽器の歴史を辿る部分には国立 [くにたち] 音楽大学の楽器学資料館の写真が掲載されていて、本文と併せて読むとよく分かる。多弦の楽器にはダルシマー、ツィンバロン、サントゥール、揚琴、プサルテリウム、カーヌーンなど多種あるが、張ってある弦を叩いたり弾くだけでまだ鍵盤アクションは存在しない。
多弦で、かつ鍵盤を備えた楽器がチェンバロやクラヴィコードであり、弦をはじくアクションがチェンバロ、そしてタンジェント (金属片) を弦に当てるのがクラヴィコードである。写真でも紹介されているスピネットは小型のチェンバロであり、クラヴィコードと同じような小型の楽器でありながら、ここに違いがある (ということが初めてはっきり理解できた)。

見た目が同じような鍵盤楽器にオルガンがあるが、オルガンは弦ではなく筒に空気を送り込んで鳴らす構造なので、気鳴 [きめい] 楽器というのだそうである。オルガンの機構自体は大変古く紀元前までさかのぼるとのことだが、その音を出すために鍵盤を使用することになったのがいつなのかはよくわからず、たぶん14〜15世紀頃と推測できると説明されているが、とするとチェンバロやクラヴィコードと同じ頃であり、つまりひとつの音にひとつの鍵盤を割り当てるという発明がその頃だったように考えられる。

ただ、チェンバロやクラヴィコードがピアノへと変わるまでには、ピアノの前身であるハンマークラヴィーアの名称の通り、ハンマー・アクションの発明があり、現代ピアノまでの道のりは長く複雑だ。坂本龍一が弾いている写真で見ることのできるセバスチャン・エラール製のグランド・ピアノは木部の仕上げや手のこんだ譜面台など大変美しく工芸品のようでもある。
またチェンバロの頃の鍵盤は白黒が反転したカラーだといわれるが、この写真を見ているとクラヴィコードやスピネットには半音部が黒鍵、全音部が木製の色そのままの茶色の鍵盤もあり、一律に反転カラーともいえないようだ。

前半部の鼎談 (坂本龍一×上尾信也×伊東信宏) の中で注目したのは、フクバルトゥス (840頃〜930) の音楽理論書に半音階と全音階という概念が存在していたとのことで 「ですから、どんなに遅くても9世紀には、12音は生まれていました」 (上尾:p.41) というのだ。しかし 「といっても12音の鍵盤までできたわけではなくて、あくまで音階としてですね」 (上尾:同頁) と補足されている。以前、別の本で 「鍵盤は最初全音階だけがあり、黒鍵としてまずB♭キーが加わった」 というようなことを読んだ記憶があるが、そのような変遷までは言及されていない。ルネサンス期の音楽は坂本も語っているように、まずモードであり12音は概念としてはあったが、黒鍵の音はあくまで旋法のヴァリエーションの結果で出現してくる音に過ぎない。全ての音がクロマティックに出現してくるのは16世紀末から17世紀にかけてであるのだそうだ。

もうひとつ面白かったのはグレン・グールドの奏法について、あの弾き方はクラヴィコードなのではないか、という指摘である。「そもそも肘が鍵盤より下にあって、腕の重さなんて全然使わないっていうのはクラヴィコードの弾き方ですね」 (伊東:p.65)。「グールドがクラヴィコードを所有していた、あるいは演奏したことがあるという事実は確認できないが、知識はあり、自分が演奏したときのイメージも持っていた」 と宮澤淳一が書いているのだという (p.65脚注)。

後半部の対談 (坂本龍一×伊東信宏) は 「静かで弱い音楽へ —— 近現代のピアノ曲を語る」 と題されているが、その核となっているのはマールタ&ジェルジ・クルターグによるピアノ演奏である。プレイリストにはバッハのカンタータ《神の時こそいと良き時 BWV106》(Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit) の1曲目〈ソナティナ〉が選ばれているが、その演奏は 「超弱音器付きな上に、ものすごくソフトに弾いていて、ほとんど鳴るか鳴らないか、ぎりぎりのタッチで弾いてる」 (坂本:p.95) のだという。
巻末の音源ガイドにはその演奏について 「ほとんど聞こえないような弱音。きわめて微妙なテンポの揺れ」 があり、「さらに強力な弱音器をつけて、いっそう小さな音、ほとんど雑音に消えいるような音を聴かせることもあった」 と伊東は解説している (p.179)。

ジェルジ・クルターグ (1926−) はハンガリー生まれ (現在はルーマニア領) の作曲家でジェルジ・リゲティの3歳年下で親友だったという。マールタはジェルジ・クルターグの妻で、夫妻で弱音による録音やコンサートを催していたのだそうだ。

これは坂本が、ピアノをどんどん鳴らないようにしていって 「サウンドを抑えることで、ノイズがより出てくるように」 (坂本:p.93) していること。そして 「どんどんSN比が悪くなって、環境ノイズの中に溶け込んでいるくらいの音楽が良いなぁ、と思っています」 (坂本:p.95) と重なる。
坂本のアルバム《async》(2017) にはそのように弱音にリファインされたアップライトのスタインウェイで録音された曲があるとのこと。「〈Life, Life〉という曲でデヴィッド・シルヴィアンが朗読したあとに弾いているピアノがそれです」 (坂本:p.93)。音が小さくなることにより、周囲の環境音が同時に録音されてしまうのをそのまま受け入れるとする姿勢が坂本の現在なのだろう。デヴィッド・シルヴィアンには環境音をそのままフィールドワークした《Naoshima》(2007) があるが、それはリュク・フェラーリの技法の模倣としてのオマージュであり、同じ環境音とノイズという同一面を見せながらそのコンセプトは全く異なるものである。

YouTubeにあるクルターグ夫妻の連弾は、プリミティヴでもミニマルでもない、音への異なるアプローチのひとつの姿だ。


坂本龍一/コモンズ:スコラ 第18巻 ピアノへの旅
(アルテスパブリッシング)
vol.18 ピアノへの旅 (commmons: schola〈音楽の学校〉)




Márta and György Kurtág/
Bach: Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit (Sonatina)
https://www.youtube.com/watch?v=O85lwrca-_c

Márta and György Kurtág/Bach-transcriptions by Kurtág
https://www.youtube.com/watch?v=Z8lTh58jhA8

Ryuichi Sakamoto/Life, Life (from “async”)
https://www.youtube.com/watch?v=FpR3VJwYHZY

Ryuichi Sakamoto/async
https://www.youtube.com/watch?v=emSold2PCvw
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『須永朝彦小説選』を読む [本]

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須永朝彦 (1946−2021) は歌人として出発した人であるが小説家、評論家でもあり、近年は主に幻想文学系の編者としてよく知られていたように思われるが、今年5月に亡くなったことを寡聞にして知らなかった。ユリイカの増刊号、そしてちくま文庫から『須永朝彦小説選』が出されたことで遅まきながらそれを知ることになった。大変残念である。

ちくま文庫の『須永朝彦小説選』には須永の小説等から選択された25編が収録されている。編者は山尾悠子である。国書刊行会から出版された『新編 日本幻想文学集成』全9巻のうち、山尾は第1巻の、そして須永は第3巻、第4巻、第5巻、第9巻の共同編集者として名を連ねている。その縁もあるのかもしれない。

最初に読んだ須永朝彦が何だったのかは忘れてしまったが、ごくマイナーな発表誌も多く、山野浩一が主宰していた『NW-SF』にも寄稿していたように覚えている。その短歌は沖積舎から出された歌集を読んだ程度であるが、作風的には塚本邦雄を連想させ、実際に塚本に師事したこともあるとのことだがある時点で袂を分かち、その後は韻文から遠のいて散文へ、さらに実作よりも編者などへとその活動を変化させていった。その興味の中心をなしていた諸作を見ると澁澤龍彦の後裔のような様相を帯びていたようにも思われる。また古典芸能にも詳しく坂東玉三郎との対談集もある。

須永は、いつの間にか本が出ていることが多くて、つまり小さな出版社からの上梓が多かったということだが、つい見逃してしまいあまりよく知らない。目についたときに読んでいたというのが実情で、思い出してみると今回の小説選もおそらく読んでいた作品が多いはずなのだが、ほとんど覚えていない。その小説の傾向としてはいわゆる男色文学であったり少年愛的傾向の雰囲気があったりするが、それは塚本邦雄の『紺青のわかれ』に似て、作家本人にその傾向があったのではなく、あくまで作風としての傾向であったようで、そのへんは中井英夫などとは異なるようだ。というより幻想文学あるいは耽美系の傾向として、同性愛はどうしても避けられぬルートでもある。

この本に収録されている作品の中で 「森の彼方の地」 だけはかすかに過去に読んだ記憶があるのだが、もしかすると塚本の同質の作品の記憶だったのかもしれなくて、そのあたりが判然としない。吸血鬼譚であり、少年や若き青年が出てくるところは萩尾望都の『ポーの一族』を連想してしまう。

ただ、今回読んでいて気がついたのは各編の冒頭に位置するエピグラフの秀逸さである。短歌が多いのだが、その印象の強さに須永の目利きをあらためて感じてしまうのである。葛原妙子の短歌が3首あるのだが、「契」 という短編には

 わが額 [ぬか] に月差す 死にし弟よ 長き美しき脚を折りて眠れ

が採られている。
その次の短編 「ぬばたまの」 は山中智恵子で

 山藤の花序の無限も薄るるとながき夕映に村ひとつ炎ゆ

これには慄然とする。
以下、幾つかを拾ってみると

「R公の綴織画 [タピスリー]」 藤原義経
 身に添へるその面影も消えななむ夢なりけりと忘るばかりに

「就眠儀式」 式氏内親王
 つかのまの闇の現 [うつつ] もまだ知らぬ夢より夢に迷ひぬるかな

「LES LILAS」 読人不知
 三月のリラの旅荘 [ホテル] の宿帳にジャンはジャンヌとルイはルイザと

全然関係はないが、かしぶし哲郎の1stアルバムが《リラのホテル》(1983) というタイトルであったことを思い出す。
そして

「聖家族 I 黒鶫」 加藤郁乎
 北に他郷の黒つぐみ、ふるさとは父 [ペール]

と俳句もあるが、これは『季刊俳句』誌に掲載された作品 「聖家族 I」 の中の2番目の掌編に付されたものである。

先に記した 「森の彼方の地」 には韻文ではなく、ジャン・ジュネの

 わたしは永遠に廿歳
 あなたがたの研究にもかゝはらず

とある。

巻末の 「編者の言葉」 の末尾に山尾悠子が選んだ須永の短歌が選ばれているが、

 蓬原けぶるがごとき藍ねずみ少年は去り夕べとなりぬ

 瞿麦 [なでしこ] の邑 [むら]  鶸色 [ひはいろ] に昏るる絵を
  とはに童形のまま歩むかな

などとあり、さらに最後の一首は須永が自身に宛てた挽歌とのこと。それは

   須永朝彦に
 みづからを殺むるきはにまこと汝が星の座に咲く菫なりけり

須永は短歌から早々に遠ざかってしまったのだというがとても惜しいし、その彼の最も若い頃の心のひだが感じられるような作歌である。ご冥福をお祈りするとともに、作品をまとめた全集ないしはそれに近いものを熱望する次第である。
尚、『須永朝彦小説選』は文庫本でありながら新漢字旧仮名で組んである。そのこだわりを賞賛したい。


須永朝彦小説選 (筑摩書房)
須永朝彦小説選 (ちくま文庫)




ユリイカ 2021年10月臨時増刊号 総特集◎須永朝彦 (青土社)
ユリイカ 2021年10月臨時増刊号 総特集◎須永朝彦 ―1946-2021―




新編 日本幻想文学集成 第4巻 (国書刊行会)
新編・日本幻想文学集成 第4巻

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『FMステーション』とエアチェックの80年代 — 恩藏茂 [本]

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これはかなりコアな本である。「エアチェックというのはカセットテープなどに番組を録音すること。人気ミュージシャンの新譜やライブなどをFM放送から録音するのが、若い人のあいだでブームになったことがあったのです」 (p.8) とのことだが、その放送の各局の番組情報をこと細かに掲載した雑誌を 「FM雑誌」 と呼び、1970年代から90年代にかけて何誌もが競合したときがあったのだという。
TV番組の情報雑誌というのも存在するが、FM放送の、おそらく音楽主体のソースに限定された録音ブームというのは、今から見ると特殊であり、逆に言えばその時代の音楽の一般常識のようなものの大衆的なレヴェルはかなり高かったのではないか、とさえ思う。

著者はその当時のFM雑誌のひとつ『FM STATION』の編集長であり、その時代を回顧したこの本は2009年に出版された。今回それが文庫化されたのであり、30年以上前のFM放送や出版の歴史ととらえてもよい。
そしてその時期は、バブル景気と重なる部分があるにせよ、今よりもずっとこの国が元気だった頃の回想というふうに読むこともできる。
スクエアな歴史書と異なるこのような大衆文化の歴史は、その時代の風俗を映し出す鏡であり、そのままにしておけばやがて風化し忘れ去られてしまうエピソードである。そうした意味でこの本は20世紀の終わりの貴重な追憶の記録といえよう。

著者はエアチェック・ブームとなる前提としてカセットテープの普及をあげているが、その推進力となったハードウェアがラジカセ、そして1979年に発売されたソニーのウォークマンであるという。
カセットテープはそれまでの音楽メディアであったレコードよりも扱いが簡便であり、そしてラジカセは持ち運べるという機動性を持っていた。さらにウォークマンはラジカセのスピーカー部をヘッドフォンに置き換えることにより、屋外で疑似的リスニングルームを所有できるというコンセプトで売り出されたのだと思う。
ウォークマンは街中で聴覚をシャットダウンするので危険だ、と非難しながら、その1ヵ月後にはウォークマンを買っていたという著者の記述に笑ってしまう。

そしてそれらのカセットテープ再生機を利用するための音源が必要となったのであり、レコードを購入してそれをカセットにコピーするという方法だけでは金銭的にも限界があるので、音源をFM放送に求め、その結果がFMエアチェック・ブームになったのだと考えられる。
だがもしそうだとしても、放送番組表で曲を探し出し録音するという作業はかなり手間をともなうし、ましてFM雑誌に附属しているカセットテープ用のラベルを使って 「マイテープ」 を作る工程を考えると、当時の若者は根性があったというか 「まめ」 だったのだろう。

だがやがてメディアとしてCDが出始め、家庭用としてのヴィデオが売り出される。ヴィデオはVHS/ベータという規格競争を経て、DVDそしてBDへと変わってきたが、カセットテープがCD-Rに変わってエアチェックが続くという現象はなかった。なぜならカセットテープとCD-Rには連続性が無いからである。そしてFM放送自体が、かつての音楽ソースを提供する番組構成から脱却してしまったのである。
20世紀の終焉とともにエアチェック文化も滅び、音楽的教養水準も退化したのである。それは昨今のサブスク潮流により、さらに刹那的に、もっと断片的になり、戻ることはない。

だが、かつてのエアチェック・ブームの頃を私は知ってはいるが、新しく出されたレコードの楽曲をエアチェックするというような発想が無く、エアチェックするというブームもまるで知らなかった。したがってFM雑誌というものを見たことも手にとったこともなく、だからこの本に書かれたことは全く初めての内容で、そうした雑誌があったということはちょっとした驚きであり、とても面白いと思いながら読んだ。
『FM STATION』は隔週刊で最盛期には50万部も売れていたというが、だとするとエアチェックは確かにブームだったのだろう。映画や演劇やコンサート情報を掲載していた『ぴあ』(1972〜2011) は知っているのに、FM雑誌が関心の範疇から全く外れていたのは奇妙なことでもある (だが、ついでに言えばここでとりあげられているFM放送の前哨としてのAMの深夜放送も私は全く知らないので、そういうものがあったらしいという類推で読むしかない)。

たぶん、たとえば新譜レコードがオンエアされたとしても、それは放送に乗せられたことにより劣化した2次音源であり、エアチェックするクォリティではないとする評価が私の中にあったからだと思う。
だからレコード化されていないコンサートのライヴ音源なら録音した覚えがあるが、それも新聞のラジオ欄で時間を確かめていた程度である。それにFMの電波は、家の前の道路を通る車からのノイズを拾ったりするので、音源として完璧なものとは言えないこともあったのだと思う。

でも、ふりかえれば、音質がプアであってもノイズが入っていても、エアチェックされた音はその時代をそのまま記録した、二度と戻ることのない日々の残滓である。不完全とも思えるそれはそうした夾雑物までを含めた自分だけのメモワールとなることに、今さらながら気づいたのだった。


恩藏茂/『FMステーション』とエアチェックの80年代
(河出書房新社)
『FMステーション』とエアチェックの80年代; 僕らの音楽青春記 (河出文庫)




プリンセス プリンセス/Diamonds
https://www.youtube.com/watch?v=IKjRLKQo7O0

かまやつひろし/我が良き友よ
https://www.youtube.com/watch?v=xeR8WWy8QRU
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最近買った本など [本]

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「最近買った雑誌」 に続いて 「最近買った本」 です。言い訳は前回に準じます。

●鈴村和成『ランボー、砂漠を行く』(岩波書店)
https://www.amazon.co.jp/dp/4000024175/
アルチュール・ランボーが詩を書かなくなった時代について最初に知ったのは確かマリ・クレールという古い雑誌に載っていた記事で、それまでの通り一遍の天才詩人といった形容から、なぜ彼は詩作をやめてしまったのかという探求が盛んになり、というような状況をなんとなく知ってはいたが、踏み込むことはしなかった。
思潮社から出された分厚い『ランボー全集』によって、それまでの翻訳とは異なった表現によるランボーを知った。もはや 「酩酊船」 の時代は過ぎ去ったのだとそのとき思った。
この本は古書店にて購入。まだぱらぱらとしか読んでいない。

●小鷹信光『アメリカ・ハードボイルド紀行』(研究社)

アメリカ・ハードボイルド紀行 ――マイ・ロスト・ハイウェイ




マニアック過ぎて全然わからないけれど面白い本。このマニアックさはかなりディープだ。映画好きの人ならわかる内容なのかもしれない。著者はダシール・ハメットなどの翻訳家として知られる。

●ほしおさなえ『東京のぼる坂くだる坂』(筑摩書房)

東京のぼる坂くだる坂 (単行本)




東京の坂に関する詳しいエッセイなのだが、その全体の流れは小説になっているというハイブリッドな作風。坂に関する部分はリアルな取材に基づいているらしいので、これを元にして坂道探索に行くのもあり。ほしおさなえは活版印刷三日月堂のシリーズなどで知られるが、小鷹信光の娘である。

●梨木香歩『草木鳥鳥文様』(福音館書店)

草木鳥鳥文様 (福音館の単行本)




見た目がカッコイイ本。絵・ユカワアツコ。写真は長島有里枝。というか梨木香歩の本は皆、さりげなくカッコイイ。

●松本完治『シュルレアリストのパリガイド』(エディション・イレーヌ)

シュルレアリストのパリ・ガイド




エディション・イレーヌの本はバーコードが印刷されていないのですが、書店のレジでは習慣でバーコード・リーダーにかざして読み取ろうとするけれどピッと音がしないので笑います。内容はパリ・ガイドのようなそうでないような。細かいことですけど社名はエディション・イレーヌでなくエディシォン・イレーヌとして欲しかった。

●ヴァージニア・ウルフ『波』(早川書房)

波〔新訳版〕




訳者は森山恵。新訳版とのことだが、SFやミステリーだけではないところにまで手を伸ばす早川書房。ヴァージニア・ウルフはみすず書房の水色の布装著作集が私にとって最初のスタンダードだったが、岩波文庫版の『灯台へ』を読んで、ランボーと同様に新訳の重要さを知る。同じような印象の装幀で『ジェイコブの部屋』がならんでいたがこれは文遊社という発行元。まだ買っていません。で『波』はどうかというとまだ読んでいません。

●高野史緒『まぜるな危険』(早川書房)
https://www.amazon.co.jp/dp/4152100389/
高野史緒は『ムジカ・マキーナ』の著者。最近だと『大天使はミモザの香り』は買ったのだけれどまだ読んでいません。早く読めよ、と本たちが言っております。

●ジョゼフ・グッドリッチ編
『エラリー・クイーン創作の秘密 往復書簡1947−1950』(国書刊行会)

エラリー・クイーン 創作の秘密: 往復書簡1947-1950年




これはとりあえず資料として買っておく。ところが書店で見たら同じようなクイーン研究本が複数あり。さすが人気作家です。2人のクイーンの創作をめぐっての往復書簡とのことだが、『十日間の不思議』とか『九尾の猫』って正直どうなの? っていうのがちょっとあって。

●ブッツァーティ短編集 (東宣出版)

魔法にかかった男 (ブッツァーティ短篇集)




全3巻。書店に並んでいるのを偶然見つけました。2017〜2020年に出ていたのですがまるで知りませんでした。ディーノ・ブッツァーティはイタリアの作家。『タタール人の砂漠』(1940) で知られるが私はこれ1冊っきり読んでいない。ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』(1951) はこの『タタール人の砂漠』の影響があるといわれていますが、そうかな? 尚、グラックの『シルトの岸辺』は同一訳者で2回訳されていますが最初の訳文のほうが私は好きです。

●ヴィリエ・ド・リラダン『残酷物語』(水声社)
https://books.rakuten.co.jp/rb/16818342/
リラダンは戦前からの齋藤磯雄訳が有名で創元社版の全集があるが、むずかしくて歯が立たない感じがしたのが過去の思い出。今回の水声社版も当世流行の新訳。訳者は田上竜也。これは素晴らしい訳だと思います。といってもまだ最初しか読んでいませんが (というか昔、齋藤訳で読んだときは単純に読解力がなかっただけ)。
訳者解説によれば 「ビヤンフィラートルのお嬢様方」 (Les Demoiselles de Bienflâtre) をなぜ 「お嬢様方」 としたかというとdemoiselleは貴族の令嬢という意味とともに俗語として娼婦の意味もあるので、その皮肉な面をあらわしたのだとのこと。モーリス・ルブランのルパン・シリーズには《La Demoiselle aux yeux verts》(緑の目の令嬢・1927) というのがあるので、単に令嬢という意味の古風な表現としか思っていなかった (マドモアゼル/ドモアゼル)。つづく 「ヴェラ」 (Véla) の訳も陰鬱で素晴らしい。
水声社では『未来のイヴ』と『クレール・ルノワール』を続刊予定。先日、古書店で買った古雑誌の中に『未来のイヴ』を特集した『夜想』17号 (1985) があって偶然読んでいたし、それに光文社文庫でも新訳が出ていて、リラダンが少しでもポピュラーになるのならそれも良いと、あまり期待しないながらも思う。

●The Peanuts Poster Book (Ilex Press)

The Peanuts Poster Book: Twenty Ready-to-Frame Prints (Poster Books)




大きめの画集。書店で安売りしていたので購入。でもamazonで見たらそんなに安いというほどでもなかった。
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最近買った雑誌など [本]

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新垣結衣/FENDI (SPURサイトより)

なぜ 「最近読んだ雑誌」 ではないのかというと、必ずしも読むとは限らないからで、買ってもそのままの雑誌や本は当然あります。というか雑誌なんて舐めるようにして読むことなんて滅多になくて、あそことここだけ、というのがほとんどのはず。

●文藝春秋 2021年9月号
https://www.amazon.co.jp/dp/B099TQ5DBQ/
芥川賞発表掲載号。今回の受賞者は石沢麻依と李琴峰。李琴峰がこんなに早くとれるとは思っていませんでした。李琴峰の『ポラリスが降り注ぐ夜』のことはすでに書きました (→2020年07月19日ブログ)。李琴峰は台湾人であり、母国語でない言語で小説を書くというのはかなりむずかしい作業だと思う。
受賞者インタビューに自分の作品に対する評価に対しての明快な反論がある。

 「『外国人が描いたLGBT小説』という枠を超えられていない」 と、前回
 芥川賞候補になった時、西日本新聞の文化面で評されました。これは
 「外国人が書いたLGBT小説」 というそもそも存在しない枠を作って、作
 品を中に放り込んで閉じ込めるような乱暴な評語ですね。このような評
 語は、文学の自由という本質からかけ離れていると思います。
  私自身は、この人はこういう作家だ、と決めつけられたくはないです
 ね。この世界はすごく複雑で人間の認識は限られているから、何かしら
 カテゴライズしないと全貌を認識できない。だから境界線を引いて、い
 ろいろな国や人種を作るのだと思います。(p.302)

そして、

  最近、私の政治的立場を知って 「裏切られた」 と感じる在日台湾人の
 方々もいらっしゃるようですが、そう感じるのは、そもそも私という人
 間をよく知らないで、私を 「台湾人」 という大雑把なカテゴリーだけで
 捉えているからだと思います。台湾生まれというのは変えられない事実
 ですが、だからといって、自分自身以上のもの——例えば国家とか、日
 台友好とか、祖国の偉大なる復興とか——そういったものを背負うつも
 りはないし、背負いきれないんです。(p.303)

という。さらに、

  いまはすべての複雑なものごとが対立的な二元構造へと簡略化されて
 いるのだと思います。「あなたは台湾人なの? 中国人なの?」 みたい
 に。でも本当は、便宜上のカテゴリー同士の間にはグラデーションだっ
 ていっぱいあるのですよね。(p.303)

グラデーションという表現には当然、LGBT的な認識の上での性のグラデーションということも念頭においていると思える。
受賞作は仮想的な複数の言語がある世界を描いていて、幻想文学ともSFともとれる構造を持っているが、『ポラリスが降り注ぐ夜』でもこのインタビューでもそうだったように、たとえば政治的な部分に対しての意見もはっきりしていて、一種の骨太さを感じる。

●SPUR 10月号
https://www.amazon.co.jp/dp/B09BYN3TBJ/
表紙が新垣結衣で、中にFENDIを着た何枚かのショットもある。クロップド丈の上衣に対するハイウエストなロング・ボトムスという対比が特徴的だ。光沢のあるロングのドレスもロングコートも上下の流れが強調されて強いイメージがあるが、新垣結衣はよく着こなしている。表紙のニットもFENDI。カメラは黄瀬麻以である。キム・ジョーンズのFENDIを紹介している内容にもなっているのだが、それらの他の作品はゴージャスだがまだ個性がはっきりと見えてきていないような気もする。

●VOGUE 10月号
https://www.amazon.co.jp//dp/B09981432N/
あまりメインとなるテーマのない内容。FASION REPORT F/W21という各デザイナーの新作を1ページ大でとりあげている特集があるが、これってページ稼ぎ? って感じもするが迫力満点。現在、アンソニー・ヴァカレロがディレクターのイヴ・サン=ローランの色彩の取り合わせが私の中ではベストである。

●SWITCH 8月号
SOUNDTRACK 2021というタイトルになっているが、細田守の《竜とそばかすの姫》の特集。これは結構読ませる。

SWITCH Vol.39 No.8 特集 サウンドトラック 2021 (表紙巻頭:細田守『竜とそばかすの姫』)




●SWITCH 1月号
ついでに買ったバックナンバー。新垣結衣+星野源の特集。この号が出たときはまだ結婚してなかったのですが。

SWITCH Vol.39 No.1 特集 ドラマのかたち 2020-2021(表紙巻頭:新垣結衣&星野源 『逃げるは恥だが役に立つ』)




●Honda RA615H Vol.1
F1速報の別冊。第4期活動のすべてとあって、Vol.2:RA616H−RA617H、Vol.3:RA618H−RA619H、Vol.4:RA620H−RA621Hと全4冊になるのだそうで、こんなの売れるのかなと思うのでとりあえず買っておく。

Honda RA615H HONDA Racing Addict Vol.1 2013-2015 (F1速報 別冊)




●ロキシー・ミュージック大全
雑誌じゃなくてムックだけれど、それに背文字がデカ過ぎてダサいんだけれど、まぁいいか。

ロキシー・ミュージック大全

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30年前の雑誌を読む —『レコード・コレクターズ』マイルス追悼号 [本]

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先日、古書店で古い音楽雑誌を何冊か購入したことを書いたが、そのうちの1冊『レコード・コレクターズ』の1991年12月号は 「追悼特集 マイルス・デイヴィス」 で、彼の逝去 (1991年9月28日) 直後にまとめられた内容となっている。30年前の雑誌なのにパッショネイトな内容で思わず深入りしてしまった。

というのはRhino (EU) 盤の《Merci Miles! Live at Vienne》というライヴ録音が出たばかりだったからで (買ったけれどまだ聴いていません)、このライヴは1991年7月1日、フランスのヴィエンヌ・ジャズ・フェスティヴァルを収録したCDである。だが、たしかこのライヴそのものの映像ではなかったと思うのだが、幾つかの晩年のライヴ映像を見ていると、マイルスの近くにサイドメンが寄り添うように立って、まるでマイルスを補助して介護しているかのように思える演奏があって、音の良否以前に、もしもし大丈夫ですか? みたいな印象を強く受けてしまったのだ。実際、もはや大丈夫ではなかったのだろうが、アガルタ/パンゲアを最期にそれ以降のマイルスは神通力を失ってしまったのだろうということが見て取れる。

30年前の『レコード・コレクターズ』は紙も焼けてしまって、レイアウトも時代がかっていて、さすが20世紀と思わせられるのだが内容は特集だけにとどまらずおそろしく濃い。さすが中村とうようである。
もちろん1991年時点での雑誌であるから、まだリリースされていないアルバムもあるし (たとえば公式ブートレグのような)、その当時を考えながら読まなくてはならないが、書かれていることはその後のマイルス批評の論調とそんなに変わるものではない。つまりその時点でのある程度の定まった評価はその後もずっと継続しているということで、まさにジャズの巨人といえよう (揶揄して言っているのではありません)。

そうした中で一番目立つし気になるのは《In a Silent Way》に対する評価である。《In a Silent Way》(Recorded: February 18, 1969 / Released: July 30, 1969) はいわゆるエレクトリック・マイルスになってから3枚目のアルバムで《Bitches Brew》(Recorded: August 19−21, 1969 / Released: March 30, 1970) の前哨と位置づけられることが多く、その評価も好悪が極端に出ることで知られる。
この『レコード・コレクターズ』の特集の中でも、後藤幸浩は 「『イン・ア・サイレント・ウェイ』というフヤケたロックとでも言えそうなアルバム」 (p.29) とこきおろしているし、湯浅学は自身の記事ではそれほど悪く書いていないのに、鼎談の中では 「『イン・ア・サイレント・ウェイ』が一番悪い。あれが諸悪の根源でしょう」 (p.33) といってフュージョン批判をしている。
だが好きなアルバムのアンケートでは、相倉久人とピーター・バラカンはこれ1枚に《In a Silent Way》を推している。この毀誉褒貶は連綿と続いていたようだが、最近では《In a Silent Way》の好感度が上がってきているように思える。

リスナーの中には《In a Silent Way》が編集されたアルバムであること、穿った言い方をすればテオ・マセロによるコラージュ音楽であるということで忌避する場合もあるようだ。それは《The Complete In a Silent Way Sessions》という完全盤、あるいはタネ明かし盤が出たことによってより明らかになった (米盤:Columbia 65362 / Released: October 23, 2001; 国内盤:Sony Records SICP-35 / Released: November 28, 2001. リマスター・米盤:Columbia C3K90921 / Released: May 11, 2004; リマスター・国内盤:Sony Records SICP-924 / Released: November 23, 2005)。
この手法を知ったとき私が連想したのはヘルベルト・フォン・カラヤンであって、つまりメディアの作り込み方を当然のように考えていたという点において2人は似ている。
Miles Ahead: A Miles Davis websiteの中にマセロのエディットの詳細が示されている。
http://www.plosin.com/MilesAhead/Sessions.aspx?s=690218

こうした点に対して簡単に私見を述べれば、《In a Silent Way》は《Bitches Brew》の前哨アルバムではなくて《Miles in the Sky》と《Filles de Kilimanjaro》というエレクトリック化以降の連続としてとらえれば納得できるのではないかと思う。それはキーボードがハービー・ハンコックからチック・コリアへ、ベースがロン・カーターからデイヴ・ホランドへ、次第に交換されてゆく状況からも感じられる。そして最後にはトニー・ウィリアムスも淘汰されてしまうのだ。
《In a Silent Way》についてはそんなに悪くはないが、かといって今の耳で聴くとそれほどに画期的といった内容でもないように思える。マイルスの吹いている部分はスタイリッシュであまりドロドロとしたものを感じない。アルバムの生成過程がわかってしまったこともあるが、冗長な部分が無いかわりにエディットが妙に鼻につく部分も存在する。
ただ私の印象でいえば、こうした初期エレクトリック・ジャズの時代のキーボードはマイルスに限らずほとんどがローズ主体であるが、その一面的で無個性な音色が私の嫌うところである。この時代特有のテイストをあらわしているといえばまさにそうなのかもしれないが、単純にアタックがのろいこと、そしてそのモコモコした感触が本来弾きたかったキーボード奏者のソロのコンセプトを制限してしまっているのではないかという危惧を感じるのだ。もっともあのローズの音がフュージョン初期の雰囲気を如実に持っているともいえるので、私の感性にはローズの音色が合わないというだけなのかもしれない。

     *

大瀧詠一《A LONG VACATION》40th Anniversary EditionはSACD盤が出ましたがハイブリッドではなくシングルレイヤーでした。そのためSACDプレーヤーでないと再生できません。価格も高いので一番廉価でオススメなのは通常盤CDなのではないかと思います。アナログも追加生産がされていますのでそれも選択肢のひとつです。

通常盤
https://www.amazon.co.jp/dp/B08KWSJ5MR/
SACD盤
https://www.amazon.co.jp/dp/B0933NRZFJ/


Merci Miles! Live at Vienne (Rhino)
MERCI MILES! LIVE AT VIENNE




Miles Davis/In a Silent Way (Columbia)
IN A SILENT WAY




Miles Davis/In a Silent Way (Full Album)
https://www.youtube.com/watch?v=YHesqaMhh34
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